表情筋の異常な発達―関根麻里の握手会に行ってきた―

1月21日(木)に関根麻里デビューシングル「ありがとう」発売に際しての握手会&「60分店長」というイベントが銀座山野楽器本店で催されました。

ぼくは60分店長のほうこそスルーしましたが、握手会のほうはCDシングルを購入すると「先着100人」に参加券がついてくるというので、がっちり参加してきました。

こういう「先着モノ」って、発売された瞬間に即さばけてしまうか、当日になってもだらだらと余ってるか、大きく分けて二択です。

「だらだらと余ってる」ことを期待して当日会場に赴いたところ、握手会の開始30分前というギャンブルな時間帯で、「70番」の整理券を手にすることができました。なんとかまだセーフでした。

最終的に100人までには達していなかったようです。当日「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングでも告知してたんですけどね。必ずしもテレビの人気が「現場」の集客につながるとは限らないわけです。


「タレント」という職業について思うことがあります。

「歌手」「俳優」「お笑い芸人」「アイドル」「声優」「スポーツ解説者」「ハイパーメディアクリエーター」…、さまざまな肩書きをもって人々は芸能界に生息していますが、その中でも「タレント」は一般性を獲得していながら、と同時にひどく曖昧な存在でもあります。

おおよそ「テレビ番組で仕事する人」のことを表す肩書きではあって、「テレビタレント」の略称が「タレント」ということが言えるはず。

他の職種と大きく違うのは、その「歌」や「演技」というひとつの特殊な技能ではなく、「仕事場がテレビ番組である」というポジションから「逆算」して、その肩書きが規定される点です。

テレビで一度でも仕事をしたのある人は「タレント」を名乗っていい。特になにも取り柄がなくても誰にもとがめることはありません。ある種「名乗った者勝ち」です。参入障壁は限りなく低い。

だからこそ、裏を返せば、いつその存在を脅かされるかわからない、あやふやな立場に置かれるのが宿命だったりします。あるテレビ番組でひとりのレギュラー出演者が首になったとしても、また別の人間が首をすげかえられれば、それはそれで成立する。いくらでも代わりが効く。収拾がつく。

ものすごい「芸能」を持ち合わせていなくてもいい。ただ、ゆるぎない「名前」があること。「代わりの効かないタレント」であること。そこに達しないかぎり、この分野で身を立てるのは決して容易なことではないはずです。


関根麻里は最初から「タレント」を目指して芸能界に入ってきた。

父・関根勤がどこかのラジオかテレビでそう話しているのを聞いたことがあります。関根勤も「そんなに甘いもんじゃないぞ」みたいにたしなめたそう。しかし結局、娘の意志は折れることがなく「タレント」への道を進み始めました。

ぼくも関根勤小堺一機TBSラジオで長年やってた「コサキン」の浅くも深くもないリスナーで、「うちの娘の麻里」のエピソードはたまにですが耳にしたことがありますし、関根親子になんら悪い感情はありません。

ただ、他の「二世タレント」に対して先入観を抱くのと同様、ぼくも最初の頃はなんとなく「たぶん通用しないんだろうなー」なんて、特に根拠もなく想い続けていました。これが、実に恥ずべきことだった、と今さらながら反省しています。

現在レギュラー番組やCM多数。紅白歌合戦の「応援隊」も3年連続ですっかりレギュラー扱いです。去年なんて10月頃から早々に紅白の宣伝をしていました。NHK総合MUSIC JAPAN」司会だからという理由もありますけど、それだけNHKの視聴者に違和感なくすんなり受け容れられるタレントだということでしょう。

最初のきっかけこそ「関根勤の娘」だったかも知れない。その部分の血統的な安心感が根底にはあります。

それ以外にも、得意の語学力を存分に活かしての国内外でのインタビュー仕事、いつの間にか堂に入っている司会業、関根家サイドからの公式的な提案であるところの「外面良子(そとづらよしこ)」を否定しない驚異的な外向きの愛嬌、また父親譲りのお笑いに対するアグレッシブな姿勢、それでいて下品にならない育ちの良さ。

年齢的にもデビュー時には既に成人していて浮つくところが無かったのが逆に幸いだったのかも知れません。気がつけばおとなだった。

しいて足りない部分を挙げれば、ほとんど「女」を感じさせない部分が、男性からしてみれば物足りないところでしょうか。もちろんその受け皿は芸能界にたくさん存在していて、関根勤の娘に求められる資質ではないわけです。

とにかく好調。今のところ「タレント」して最大級の成功を収めているようです。


すこし気になっているのが関根勤のほう。

基本的にはルックスも考え方も、未だにぜんぜん若くって、まったく老け込んではいない。娘と世代交代しよう、そろそろ引退だな、とか弱気でもないだろうし、実際めちゃくちゃ元気に活躍し続けてる。変わっていない。

でも、これは感覚的なもので、ぼくもあまりネット世論を真に受けちゃいけないのかも知れませんが、最近すこし「関根人気」が低迷してるような気がしています。

周囲からの「さすが関根さん」的なフォローによってなんとか救われている場面をけっこう見かけます。昨年末の「いいとも特大号」の東方神起のものまねとか、「アメトーーク」出演時(「家電芸人」「上戸彩芸人」等)とか。

他人とはポイントがズレたマニアックな視点を提供するのが関根勤だと思うんです。「関根的なものの見方」がバイブルに近かった時代もあったはず。

もちろん人間誰しも年を取れば、勘は鈍るし、若い人との感覚の差が出てくるもので、それに対して「老害」というレッテルを貼るなんて愚の骨頂。50代も半ばになってなお、若手や中堅芸人の中にひとり混ざって同じ土俵で戦う姿は、芸人の理想的な年の取り方でしょう。

ただ、見ていて「ん?」と直感的にとまどう場面が、ほんのちょっと多くなってる感覚があるのです。うっすらとですが、そんな風潮を正直感じています。


ひとつ「関根家・質量保存の法則」というのを思いつきました。「関根家としての活躍の総量は決まっており、関根麻里が活躍すればするほど、関根勤の勢いが弱まっていく」というものです。

物理法則のもとに、娘が活躍するほど父の活躍の場が失われるなら、それは父にとってはあきらめのつくことなのかも知れません。


関根麻里が「タレント」として活躍できるのは、関根勤というタレントとしての偉大な先人が存在していたからではないか、と思っています。これは親子とか二世だからとかいうのではなく。

現在の「タレント」像というもの自体が、何百年も前からあるものではなく、関根勤その人が30年以上かけてテレビで築き上げてきたものだ、と考えることができそうです。70年代、まだ大学生の頃からやってるんです。「徹子の部屋」初期レギュラーなんて他に誰もいません。

関根勤は「仕事場がテレビ番組である」という定義における「純タレント」としての立ち位置をまっとうに形作ってきました。

「タレント」とは関根勤を初代に始まった「関根家」のみに受け継がれる伝統芸能である。

もしそう仮定するならば、そのあり方を正しく受け継ぐことができるのは、もはや娘である関根麻里しかいないんですね。

歌舞伎や落語みたいな世襲制だと考えた場合、タレントとしての屋号「関根」の大看板はただひとり。林家木久扇木久蔵親子の例ではないですが、世が世なら、制度が制度なら、そろそろ代替わりの時期なのかも知れません。


で、そんなでたらめを漠然と考えながらも、ぼくは「わー、関根麻里が見たいなー」という単純なくそミーハー的な興味に導かれて握手会に行ってみたわけです。

地下鉄銀座駅を降りてすぐの山野楽器本店。表通りに面していて、しかもその一階入口というもっとも往来の目につく場所です。事務所やレコード会社の人、取材陣など、関係者だけでも二十数名。現場は騒然としています。

日も暮れた寒空の下で握手の列に並びました。といってもせいぜい70人から80人。そんなに待ちません。

定刻になって関根麻里が登場しました。

しかしその姿は、歩道に沿って握手のために並んでいる客にはほとんど見えません。拍手も届かない。まぁ、イベントってこんなもんです。

関根麻里に何を話かけようかと並びながら思案しました。もしも超高速ベルトコンベア式でただ手に触れる程度なら「どもども」程度しか言えないだろうし、逆に何十秒とか時間が与えられたら、それを埋めるだけの最低限の心構えはしておかなきゃいけない。

紅白のこと、テリー伊藤のこと、スッキリ!のこと、父・関根勤のこと、「MUSIC JAPAN」のこと、またそこで共演してるPerfumeのこと、歌手活動の心構え、今後の野望は云々…一般人まるだしのテーマばかりが頭をもたげます。

ほどなくして握手会がスタート。列の流れを見ていると、どうやら持ち時間はひとり15秒くらいでした。会話が3,4往復できる感じ。「流し」はゆるく、理想的な条件かも知れません。

ただこの待ち時間の段階でひとつ「惜しいな!もったいない!」と思ったのは、関根麻里が高さ20cmほどの「台」の上に乗って握手をしていたことです。

個人的には握手会などでタレントと直接あいまみえるときに、その「等身大」を体感したいな、という希望が常にあるんですよね。「うわ、思ったよりちっちゃいな!」とか「デカッ!」。本人と直接会ったときの貴重な体験として、イメージとその身長とのギャップを存分に味わいたいんです。

もちろん高台にのぼるというのはそれだけ関根麻里の身長が低いということ。公式サイトによると154cmだそうです。男性と目線を合わせるには適切な措置だったのでしょうが、その「小ささ」を体感したかった。


さて、いざ関根麻里本人の目の前に立ちました。整理券を係の人に渡して、目の前です。

顔の「パーツ」がぜんぶ大きい! 目も鼻も口も主張していてザ・顔!って感じです。

少し見下ろされながらという奇妙な段差を隔てながら、おぼろげに以下のようなやりとりをしました。

ぼく はじめまして
関根 こんばんはー
ぼく お会いできて嬉しいです
関根 こちらこそー

ここまでは、ふつうの挨拶です。


次の瞬間。

関根 (いきなり顔がクワッと豹変して申し訳なさそうに)…寒い中すみませーん


これ、すごくびっくりしました。

いつものようにニコニコしながら笑ってた関根麻里の顔が、突然クワッと「ものすごく申し訳なさそう」な顔に変貌して、「寒い中すみませーん」と抑揚をつけて全力で謝ってくるんです。

腰を屈めて握手をしながら、「寒い中↓」でトーンを落として「すみませーん↑」でトーンを上げる。ニュアンスが伝わるでしょうか。

たしかにこの日は昼間こそ暖かかったものの、夕方になるにつれて一月らしい寒さが増してきて、夜風が吹きすさぶ中で握手の列に並ぶことになりました。それを見越してお客さんに「寒い中…」と温かい声をかけているわけです。

礼儀にかなってるし、関根麻里のイメージにもぴったり。

でも「ニコニコ」から「申し訳なさそう」へと変化する際、いっさいのモーフィング的な変化の過程を見せることなく、まるでキン肉マンに出てくるアシュラマンみたいに瞬時に顔が切り替わったことに、単純に生理的に超びっくりしました。

しいて関根勤風の表現を借りるとすれば「関根麻里って表情筋が異常に発達してるよね!」。さすが「濃い」「クドい」などと言われる父親・関根勤の遺伝子をダイレクトに受け継いだ顔。

表情筋トレーニング的なことはきっとしているのだろうし、海外生活で日本人離れしたオーバーアクションを身につけたというのもあるでしょう。そのくるくる変わる顔面力で、世の好感を得、また目まぐるしい芸能界を変幻自在に生き残る。

そんなある種の「武器」をナマで眼前に浴びせられて、とにかくビビりました。


まだ続きます。

ぼく (顔の豹変にびびりながら)いえいえ…
関根 これプレゼントです


バレンタインのチョコレートを手渡してもらいました。


関根麻里プロデュース」。犬の顔を模した2cm四方の小さなチョコです。といっても自分だけじゃなくて、もちろんお客さん全員に手渡していたんですけどね。このチョコレートがぼくの今年もらう最初で最後のチョコになるかと思うと感慨もひとしおです。


もう少しだけ続きます。

ぼく ありがとうございます
関根 いつもありがとうございますー
ぼく あのー、セ、セキニキ……(噛んだ)……関根家ごと応援してますんで!
関根 父ともどもよろしくお願いします
ぼく はい!

そんな感じで終了しました。「セキニキ」とか完全に噛んだものの「関根家」という難易度の高いフレーズを繰り出すことができてよかったです。

話に必死だったのと関根麻里の表情筋に圧倒されたので握手の感触はよく覚えてません。でもいい体験でした。これでどこまでも関根家の遺伝子ごと応援していくことが決定してしまいました。