朝青龍の引き際を暗示していた現役最後の「無気力」

「土俵の上では鬼にもなる」

引退会見ですら「横綱の品格」について訊ねた記者の質問にそう答え、最後までいわゆる平均値的な「理想の横綱像」を頑なに体現しようとしなかった朝青龍でしたが、そんな横綱をして「土俵の上で鬼になりきれなかった」取組がありました。

それは1月24日(日)の平成二十二年初場所千秋楽、横綱白鵬との一番。

そのときは誰も(おそらく本人さえ)予想さえしていなかったことですが、結果的には朝青龍の現役最後の土俵になってしまった取組です。

以前書きましたがこの日ぼくは両国国技館に人生初めて訪れて、二階席の最後列からナマの大相撲を楽しんでいました。

そんな白鵬との一番に、ぼくが「アレ?」と思ったのは、仕切りが制限時間を迎えていざ白鵬と対峙するぞというときに、朝青龍がいつも必ずやってるはずの「気合い入れの動作」を一切おこなわなかったことです。


塩を取りにいくときに、股を大きく開いて「セイ!」とか大声を出しながら、利き手の左手でまわしをボフッ!と叩き、通路の奧にいる付け人たちを睨みつけ、表情は鬼の形相。そんな一連の動作です。場内のボルテージもこれでワッと盛り上がる。

いつもテレビで見ていて行っていたはずのこれらの動作が、遠くから見ていてもはっきりわかるほど、なにもおこなわれない。

この場所は朝青龍の25回目の優勝が、14日目にして早々に決定していました。朝青龍が1敗を堅持する中、白鵬が千秋楽を待たずして3敗と自滅してしまい、結果朝青龍に優勝を譲る形になっていた。

「だから気合が入っていなかった」というのは、誰にでもわかりやすい「無気力」の理由。

そして事実、千秋楽の取組で朝青龍白鵬の一方的な攻めに敗れ去りました。立ち合いこそ先手を取って先に左前まわしを引いていますが、すぐに白鵬に切られて、あとは防戦のみ。決まり手は「寄り倒し」。朝青龍は土俵の下にごろんと落ちちゃった。

朝青龍の気合が足りなかったのは決してぼくの気のせいじゃなく、NHK総合で場所中の深夜に放送されている「大相撲 幕内の全取組」の当日の放送分で確認できたことでもあります。

NHKの実況担当のベテラン・藤井康生アナが、朝青龍が取り組み前に「気合い入れの動作」をしなかったことについて、しっかり言及していたんです。

藤井アナ 制限時間いっぱいです。……おっ、今日は朝青龍が気合を入れません。……うーん、朝青龍25回目の優勝が決まった翌日千秋楽

なんだか嘆き悲しむような口ぶり。そのだだ下がったテンションのまま、藤井アナは横綱決戦の実況に突入しています。

ぼくも朝青龍の過去すべての取組を見ているわけではないのですが、藤井アナが「今日は朝青龍が気合を入れません」とわざわざ言及するということは、それだけ希有な事態だったはず。

そして藤井アナのテンションの下がりっぷりに呼応するかのように、朝青龍もまたあっけなく敗戦してしまうのです。

スポニチアネックス1月25日付記事より。

前夜は酒も控えめにして床に就いた。しかし、14日目で優勝を決めてしまった安心感が、勝利への意欲を薄れさせた。「勝ちたかったけど、先に優勝を決めたから気持ちが乗らなかった。こんな経験は初めて」。恒例のまわしを叩く気合注入ポーズも忘れてしまうほどだった。戦う前から勝負の行方は見えていた。

この文面からも勝利への意欲の薄れ方をうかがい知ることができます。

たしかに朝青龍は現役最後の場所で優勝を飾って、実績的には「最強」のまま、一連の騒動の責任を取るかたちで引退を余儀なくされてしまいました。

しかし品格を二の次にしてまで土俵で「鬼」に徹し、ここまでのしあがってきた横綱にしてみれば、同じモンゴル出身の気鋭の横綱を相手にした一番での気合不足には、正直ひどく煮え切らないものがあるわけです。個人的には睨み合いより頂けない。

これまで横綱が常に勝利への執念を燃やし続けてきたはずの土俵で、こんな場面を見たことはありませんでした。

「電撃引退」と言われますが、ひょっとすると今のこのタイミングこそが、横綱朝青龍の一アスリートとしてのベストな引き際だったのかも知れない。そんなふうに思ったりもしています。もちろん引退なんて超もったいない、というのは大前提です。