ナンシー関が着目していた有吉弘行のふてぶてしさ


この写真をテレビで使うのはそろそろきつい


「このところ有吉ネタ多すぎだろ」という自粛ムードがセルフ蔓延中といえ、テレビで有吉弘行ナンシー関の名前を出していたので、さすがに取り上げざるを得なくなりました。松村邦洋の復活が心底よかったねという昨日に続いてまたもや太田プロ芸人ネタです。


3 日にテレ朝系で放送された今田耕司 MC の特番「お笑いエピソード GP THE 芸人伝説」は、たくさんのお笑い芸人をひな壇に集めて主に楽屋裏話みたいなもんを暴露しあうというありがちな内容でしたが、いわゆる「 21 時またぎ」くらいの時間に有吉タイムがありました。

「同じ広島県出身の後輩芸人アンガールズと反目しあっている」「猿岩石がまだ売れる前に TKO 木下に世話になったにも関わらずヒッチハイクから帰ってきたら木下のことを忘れていた」などのような、有吉の人間としての器がちっちゃいんだよ、というエピソードが繰り出されます。

そんなエピソードの流れで、有吉が口走っていたのが、以下のようなことでした。

ぼく(有吉)の目の奧が死んでると見破ったのは、東野さんとナンシー関だけなんですよ


まずはナンシー関の名前が、有吉の発言ということでいきなり字幕テロップつきで放送されたことに、なんだかドキっとしてしまいました。どんな裏話よりもインパクトがあった一言です。有吉の話しぶりのせいか、そこでドッと笑いが起きていたことを含めて。

で、有吉の言うことには、東野幸治ナンシー関だけは、今みたいな毒舌キャラがまだ鳴りを潜めていた猿岩石の時代から、自分の目の奧の死んでるっぷりを見破っていた、と。

「目の奧が死んでる」というのはイコール「表向きはニコニコしているものの実際の人間性は冷酷非道」くらいに意訳してもいいでしょうか。

また「見破った」という表現には、有吉の「よくぞ売れない時代から自分の本質を言い当ててくれていた!」という懐古の情も含んだちょっとした嬉しさも含まれているように見てとれます。


1998 年、今からおよそ 11 年前に「週刊文春」に掲載されたナンシー関のコラムに『リン魂でわかった有吉のふてぶてしさ』というタイトルのものがあります。

有吉の言っているのはたぶんこの内容のことだと推察されます。他にもあったりするのかな? 知ってる方がいらっしゃればご教授ください。

当時放送されていたテレ朝系「リングの魂」の芸能人最強柔道王を決定するという企画で、ウド鈴木が有吉を破って初代王者に就いた、みたいな話から、有吉論が展開されています。

(前略)

しかし、私は負けはしたもののこの有吉の強さとその試合ぶりに興味をひかれた。あんなに童顔なのに、どうしてふてぶてしさしか印象に残らないのか。ユーラシア大陸横断も、今となってドロンズや朋友(パンヤオ)と比べてみると、特に有吉はひたむきさに欠けるというか(今思えば、であるが)没頭の度合いというか、体温というかが低い感じだった。それは、この生身の人間としての強さのせいだったのかもしれない。テレビという顔を強調する装置のせいで、我々は有吉という人間を、間違えて解釈しようとしていたのかもしれない。有吉は何故かふてぶてしく見える、のではなく生来ふてぶてしいのだ。('98・7・16)
【文春文庫「テレビ消灯時間 2 」より抜粋】

有吉が今回の番組内で言っていたような『目が死んでる』という表現ではないですが、主旨としては同じようなもんです。「生来ふてぶてしいのだ」。言い切ってます。

これが、見破っていた、ということですね。

ナンシー関の舌鋒の鋭さにも似た視点を持っていると評されることの多い有吉が、自分のことを書かれていた当該コラムの内容をテレビであらためて持ち出したのは、たぶんそれなりに熱心な読者だったからだろうな、と察することもできそうです。


いつまでもナンシー関に囚われてる場合ではないんです。

でも、ナンシー関から有吉へ、なにか根絶やしにしてはいけないような遺伝子がどうやら相伝されているようなのは、とても掛け替えのないことだと思います。


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